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総長訓示式辞

三三 昭和六年五月一日宣誓式ニ於ケル松浦総長ノ告辞

昭和六年五月一日入学式宣誓式に於ける松浦総長告辞
諸君が新に本学に入学せられ茲に厳粛なる式の下に宣誓を行はれるに際しまして私は諸君に対する歓迎の意を表すると共に二三諸君の御注意を促すべき点に就て申述べたいと存じます、各学部に関する事柄に就ては各学部長から其れぞれ詳しく御話があつたことと存じますから私は大体諸君が大学の学生として心得らるべきことを述べるに止めます。
諸君が本学に入学せられて先づ第一に大学といふ所は諸君が今迄通過して来られた学校とは余程趣を異にするといふことを御感じになつただろうと思ふ。今迄の学校では規則で定まつた修業年限といふものがあり又各学年に配当せられた学科課程があり生徒は学年を遂ふて此課程を履修し修業年限の終に卒業をするといふ順序になつて居る、然るに大学は一定の修業年限といふものが無い、各学年に配当せられた学科課程といふものが無い、又卒業といふことも無い、尤も医学部では四年他ノ学部では三年在学して学士試験に合格すれば学士となることが出来る、如此四年若くは三年を経て学士試験に合格して学士となることを通俗には卒業と称して居る、従て学士試験合格証書を授与する式を卒業式と呼んで居るのである、然しながら此卒業といふことは諸君が是迄居られた学校の卒業とは全く其意味を異にいたします、これは唯学士試験を受けるに必要な最短在学期間で学士試験を受けて合格したといふことであつて何人も此最短期間の中に学士試験を受けねばならぬといふ義務は無い、四年目に受けても五年目に受けても随意である、又試験は何度受け直しても差支ない一人が余り長く居て場所を塞げて他人の邪魔になつては困るから本学では八年以上は在学出来ぬことになつて居るが八年計画で学士になる積りなら一向差支無い尚ほ一歩を進めて言へば学士試験などは全然受けなくても宜しい、学士試験を受けるが為には或種の学科目を是非共修めなければならぬといふ拘束がありますが若し学士試験を受けない積りなら自分の気に入つた一科目丈けを修めて他は何もやらないでも差支無い、如此く制度の上では極めて自由な仕組になつて居ります、学生が怠けやうと思へば幾何でも怠けられる余地があります、か様に大学が極めて自由な悪く言へば甚だ締りの無い放任主義を取て居るのは抑も何が故であるか、これは大学といふものの本質から生ずる結果に外ならぬのであります。
大学の本質は大学令第一条の示す所に依て明であります、大学令第一条には大学は国家に須要なる学術の理論及その応用を教授し竝其の蘊奥を攻究するを以て目的とす、と規定して居ります、即ち大学は二箇の大きな使命を有て居ります先づ学生に対して国家に須要なる学術の理論及応用を教授すること換言すれば社会各方面の職業、従事すべき人材の素養として必要なる学術の理論及応用を授けること即ち最高の職業教育(専門教育と申すも同じことである)を授けることこれが第一であります、尤も大学生の中には学術の蘊奥を攻究する学者にならふといふ人も有りましよう、将来大学教授の後継者となるべき人の如きは大学生の中から出るのは当然である、然し此等は寧ろ少数であつて学生の大多数は出でて社会各種の職業に就かんとする者であることは明である故に大学は職業教育を授ける所であるといふて少しも差支ない次に大学其れ自体が換言すれば大学の教授たる其人が自ら学問の淵源とし学問の代表者として常に学術蘊奥の攻究に努むることこれが第二であります、大学は此の如く一方最高の職業教育機関であると同時に一方学術の蘊奥を攻究する機関であります、これはまことに明瞭なことであつて独り我国の大学のみが然りといふのではない世界各国の大学皆然りである、其一例として昨年三月五日に定められた独逸の「ベルリン」大学の規程を挙げて見よう其第一条に
Die Universitat zu Berlin hat die studierende Jugend zum Eintritt in die verschiedenen Zweige des hoheren Staatsdienstes sowie fur andere Berufsarten,zu denen eine wissenschaftliche Bildung erforderlich oder nutzlich ist,vorzubereiten.Eingedenk ihrer grassen Vergangenheit dient sie als erste Hochschule des Staates der Aufgabe ,im Schutze der Verfassungs massig gewahrleisteten Freiheit der Wissenschaft Forschung und Lehre zu fordern und den Wissenschaften schopferische Antriebe zu geben
と規定して居る、大学が職業準備教育である点に就ては此規程は我大学令第一条よりももつと露骨に表明して居るのである。所で我国では大学の本質に関して兎角世間で陥り易い甚しきに至ては文政の当局者までが往々にして陥る所の大なる誤解がある、それは何かと申すと大学は学生に対して職業教育を施す所では無い学生をして学術の蘊奥を攻究せしむる所であると考へることである、これは学術蘊奥の攻究は学生の仕事では無くて大学其れ自体の仕事であるとゆふ大学令第一条の明なる規定を読違へたものであり、研究機関としての大学と教育機関としての大学とを混淆したものであり全然間違であります、如此き誤解は固より之を一掃しなければなりませぬが然し大学に於ける職業教育が他の学校に於ける職業教育と其趣を異にし他の学校では味ひ得られない一種の妙味が其間に存在して居る所以のものは大学が単純な職業教育機関に非ずして一面には研究機関であるといふ点に存ずるのであります、諸君が大学生として受けられる職業教育は各種の職業に従事するに就て差当り必要な丈けの学術を授けるといふ様な狭い奥行の浅いものでは無い、日進月歩の学術の発達に伴ふて不断新知識を吸収し又応用の方面に於ても事物の変遷に順応して之に善処し得る素地を作るといふ余裕のある職業教育であります、此様な職業教育は大学が一面研究機関であつて学生を教授指導する先生は同時に研究者として学術の蘊奥を攻究しつゝあり学問には常に研究的気分が充ち満ちて居る其雰囲気の中に於てのみ初めて為し得られるものである、この意味から申しても大学に於ける教育は唯先生が諄々として教へる学生は黙々として之を聴聞して居るに止まるといふ様なことでは行かぬ、学生の態度がか様に受動的であつてはならぬ、学生は自発的に活動しなければならぬ、常に研究的気分を以て進まねばならぬ、それには修業年限を一定したり、学年に一定の学科目を配当したりして規則の上で学生を拘束しないで総て学生の自由の学修自発的の研究に任かせた方が宜しいといふ所から前申した様な自由放任の制度を取るに至つたのである、大学に入学する者は最早シユーラーでは無いスツデントであるから之を子供扱にしないで之を大人扱にする、外から之を拘束しないで各自の良心に訴へるといふ訳であります、即ち諸君に対して大なる自由を与へるといふことは諸君の責任を解除せんが為では無い、却て大なる責任を負はしめんが為である、諸君をして遊惰ならしめ放縦不節制なる生活を為さしめんが為では無い諸君をして自ら進んで大に奮励せしめんが為である、諸君にして万々一にも規則上の強制拘束なき為に不知不識心に弛みを生じて遊惰放縦に陥るが如きことがありましたならばこれは自由制度の濫用であり自己を軽んじ自己を辱むるものである、私は実験実習等の為、毎日登校して先生と顔を合せなければならぬといふ関係が無く且人数の多いが為に目立たずに学校から遠ざかり得る機会の多い法文学部の学生諸君殊に法律経済の学科を修められる諸君に特に此ことを御注意したいと思ひます、学生諸君いよいよ大学といふものゝ真精神を理解し自己の責任を自覚して奮て学業に勉められんことを切望いたします。
次に申述べたいことは精神修養といふことであります、大学令第一条に於ても大学は人格の陶冶及国家思想の養成に留意すべきことを規定いたして居ります、大学は単に学術の研究教授のみを為す所では無い、同時に精神陶冶を行ふ所の道場であります、此のことも独り我国の大学のみが然りといふのでは無い現に欧州大戦以前に於ては大学に於ケル精神陶冶のことを別に規定の上で表はして居らなかつた独逸の諸大学の如き大戦後に於ては特に之に注意する様になりました前申した「ベルリン」大学の規程第一条にも前述べた文句の次に
Als Gemeinschaft von lehrenden und lernenden,die im Geiste der Wahrheit verbunden sind, sucht sie den sittlichien Charakter der akademischen Jugend zu entfalten und sie zur Verantwortungs vollen Mitarbeit an Staat und Kultur zum Wohle des Volksganzen heranzubilden
と明記して居ります、大学は固より一定の鋳型にはめて人物を養成するといふ所ではありませぬ各人をして自由に其才を伸べしめることを目的といたします、思想の点に就ても或は保守的の人も出るであらう、或は進歩的の人もあるであらう、或は極めて急進的の考を有つ人もあるであらう、色々の人が出て所謂百花妍を競ふといふ状況を呈することが寧ろ大学の本色でありましよう、然し大学に於て養成せらるる人は個人としても立派なる人格を備へ且我建国の大精神を体し万国無比の国体を擁護し其精神を発揮し国家社会の健全なる発達を為さしむるが為に其力を致すといふ固き信念を有つ者でなければなりませぬ、これは国家が大学に対して期待して居る所の大切な点であります、さて此精神陶冶を為すには如何にすれば宜しいか大学には倫理科とか修身科とかいふ特別の学科はありませぬ、これは学生相互の切磋琢磨にも依らなければならぬ、運動競技の間にも大なる精神陶冶の機会はあるのである、又種々のことを中心とした学生間の団結の如きも此目的を達する方法となるでありませう、然し私は先生と学生との精神的接触といふことが最も大切と信じます此間に於ける先生の薫陶といふことが最も有効と信じます、私は学生諸君が諸先生に対して学問上の師といふ計りで無く精神上の師として其薫陶を受けられんことを深く希望いたします、如此ことは殆ど言を俟たぬことであるとは思ひますが、大学に於ては兎角学問といふことのみが主たることに考へられ学生の先生に対する関係の如きも主として学問の方面のみから考へられる傾向がありますから特に此ことを申す次第であります尚此処で付加へて申しますが教練といふ科目は兵事に関する高等常識を養ふ上にも極めて必要なるのみならず之に依つて世界に於ける我国の地位如何といふことも知ることが出来るし、国民としての覚悟を固くすることも出来ますし精神の鍛錬といふ上にも頗る有益なものと考へますから私は諸君が奮て此科目を学ばれんことを希望する次第であります。
次に新に大学院に入学せられた諸君は已に本科の業を終り大学の精神も十分御理解のことでありますから別に改めて此等の諸君に申すことはありませぬ今後益々奮励して学術の研鑽に勉められむことを望むのみであります簡単ながら之を以て私の告辞を終ります。

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